日本の近代文学作家ガイド
【作家 ガイド】
◎日本の近代文学作家ガイド
はじめに。
日本の近代文学を代表する作家たちに付けられていたコピーを紹介します。
(※引用したコピーは、「昭和文学作家史」(毎日新聞社・1977年刊)による)
たった数文字で、作家の魅力や特質をズバッと言い切るのは至難のワザ。
でも、意外に核心をついてるように思えたりもして、なかなか面白いものがあります。
そうした表面的なイメージの流通に抵抗するのが「文学」の営みではありますが、
作家たちがこんなイメージで理解されていたという一つの資料です。
ついでに文学史のなかでの位置づけや、作家たちがお互いをどう評価していたかとか、
他の文献からの引用もつけ加えておきます。
◎二葉亭四迷
近代文学の先駆者
「ふたばていしめい」というヘンな名前の作家(本名:長谷川辰之助)。
作家になるなら「くたばってしめぇ」と親から言われたのをペンネームにしたという俗説が有名ですが、実際は自嘲でつけたらしい。ただ明治の頃は小説家なんて、親に勘当されるほどヤクザな商売だったのは確かなことです。
この長谷川クン、大学の授業で出会ったロシア語の小説に熱中し、自分も何か書いてみたいと思ったものの、当時はまだ江戸から続く“文語”の時代。彼は新しい時代の小説にふさわしい文体を求めて“言文一致(げんぶんいっち)”を実践し、明治20年に日本で初めての近代小説『浮雲』(未完)を書きました。その他にも、新しい文体でロシアの小説を翻訳したりして当時の人々を驚かせたそうです。ただし、今の私たちが読んでも古くさく感じるだけですが。
● 二葉亭四迷 「余(よ)が言文一致の由来」
もう何年ばかりになるか知らん、余程(よほど)前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思ったが、元來(がんらい)の文章下手で皆目(かいもく)方角が分らぬ。そこで、坪内(つぼうち)先生の許(もと)へ行って、何(ど)うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝(えんちょう)の落語を知ってゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見
たら何(ど)うかといふ。で、仰(おお)せの侭(まま)にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄(まで)もなく東京辯(べん)だ。即(すなわ)ち東京辯(べん)の作物が一つ出來た譯(わけ)だ。早速(さっそく)、先生の許(もと)へ持って行くと、篤(とく)と目を通して层られたが、忽(たちま)ち礑(はた)と膝(ひざ)を打って、これでいゝ、その侭(まま)でいゝ、生(なま)じっか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おっしゃ)る。
坪内(つぼうち)先生というのは、明治18年に『小説神髄』(しょうせつしんずい)を著わして、江戸時代の勧善懲悪(かんぜんちょうあく)を脱する新しい小説論を提唱した坪内逍遥(しょうよう)のこと。英語の“ノベル”にあたる「小説」という概念を日本で初めて使った人です。
ちなみに、坪内逍遥は大学の先生でしたが“言文一致”の『浮雲』が刊行された当時、四迷は23歳、逍遥は28歳でした。明治の言文一致運動の始まりは、若者の手によるものだったんですね。ちなみに、この坪内先生は後々、後輩となる文学者たちに笑われています。
● 津野海太郎 『滑稽な巨人』
まず二葉亭四迷は、『小説神髄』に多大の感銘を受けたくせに、ロシア小説を愛読した批評眼によって、逍遙の小説を面と向って批判した。森鴎外は没理想論争で逍遙を凹ました。夏目漱石は逍遙訳による文藝協会の『ハムレット』を観て「無理な日本語」と批判した。志賀直哉は同じ公演を観て、主役のハムレットより敵役のクローディアスに共感を寄せ、『クローディアスの日記』を書いた。太宰治は『新ハムレット』で逍遙訳の古めかしさを笑いものにした。
◎森鴎外
巨大な啓蒙作家
陸軍軍医総監にして小説家。明治屈指の教養人で、この時代の作家のなかでは夏目漱石ともに別格扱いされています。国語の教科書にもよく採用されますが、通に言わせれば“鴎外は晩年の歴史ものに限る”らしいです。
『舞姫』のモデルとなった踊り子のエリスは、はるばるドイツから鴎外を追って日本にやって来ましたが、捨てられて帰国。
鴎外を主役にしたTVドラマの主題歌『たそがれマイラブ』(by大橋純子)では、「さだめという~いたずらにィ、引きさかれそうなァ、この愛ィ」と歌われました。
第一級の批評家でもあった作家の三島由紀夫は、鴎外の文章の魅力について次のように述べています。
●三島由紀夫 『文章読本』
鴎外の文章は非常におしゃれな人が、非常に贅沢な着物をいかにも無造作に着こなして、そのおしゃれを人にみせない、しかもよく見るとその無造作な普段着のように着こなされたものが、たいへん上等な結城であったり、久留米絣であったりというような文章でありまして、駆け出しの人にはその味がわかりにくいのであります。
◎泉鏡花
妖美と幻想と
日本の近代文学における幻想小説の先駆者といえばこの人、泉鏡花(いずみきょうか)。
“言葉の魔術師”という形容がこれほど似合う人はいません。江戸文芸の美意識を受け継ぐ工藝職人のような作家です。この世のものとは思えぬほど美しい女性や、異形の化け物が登場する独特のロマンティシズムに彩られた世界は、当時の文壇の主流であった“自然主義文学”とは対極にあります。永五荷風や谷崎潤一郎や芥川龍之介などからも熱烈に支持されました。
●三島由紀夫 『文章読本』
(鏡花の)文体のなかに捲き込まれた読者は、一つ一つのものを明確に見極めたり、手にとったりするいとまもなく、次々と色彩的文体に翻弄(ほんろう)されて、一種の理性の酩酊(めいてい)に落ち込みます。…鏡花の文体はこのような理性が、理性自体でたどり得る最高の陶酔を与えてくれると言っても過言ではありますまい。
“酩酊”とは、酔うこと。「理性で たどり得る最高の陶酔」なんて、由紀夫も絶賛です。
◎武者小路実篤
仲よきことは美しき哉
明治の終わりごろ、文壇の主流であった自然主義派から距離をおいた仲良しグループに「白樺派」がいました。上流階級の子弟が通う学習院出身の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らがともに創刊した雑誌『白樺』がその名の由来です。“白樺”の名を強く押したのは、ロシア小説に傾倒していた実篤だったとか。「トルストイは僕の最初の恩師であり、最大の恩師であった」と語っています。そういえば、若き日の竹中直人が、「さねあつッ!」と叫んで武者小路実篤のモノマネをしていました。
◎志賀直哉
“小説の神様”と言われて
その無駄のない簡潔な文体は、大正から昭和にかけての多くの文学者から賞賛され、“小説の神様”と呼ばれました。芥川龍之介は「志賀直哉氏は、僕等のうちでも最も純粋な作家」と書き、師である夏目漱石に「志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」と聞くと、漱石も「俺もああいうのは書けない」と言ったそうです。長編小説の『暗夜行路』は、近代日本文学の代表作の一
◎芥川龍之介
大正文学の鬼才
“芥川賞”にその名を残す作家です。大学在学中に発表した『鼻』が夏目漱石から激賞されて文壇デビュー。古典作品を題材にとるなど、多様なスタイルを使い分けて数多くの短編小説を残しました。晩年に「小説は“筋”の面白さや奇抜さが作品の質(芸術的価値)を決めるわけではない」と主張し、物語性を重視する谷崎潤一郎との間で論争を行いました。「ぼんやりした不安」と遺書に書き残して自殺。その死は、大正文学の終焉(しゅうえん)と重なっています。
●日本幻想文学集成 『芥川龍之介』 解説・橋本治
芥川龍之介は「美」の人であろうと、私は思う。『羅生門』の理屈はつまらないが、しかし羅生門に降る雤は美しい。…芥川龍之介が自死に追いやられて行く時代は、私小説と言う文学のファシズムが擡頭(たいとう)して来る時代である。誰も人がそんなことを言わなくても、私はそう思うのでそのように言う。芥川龍之介は、私小説というエゴイズムに殺された作家である。芥川龍之介を殺して昭和は始まり、芥川龍之介を排除して始まった昭和の文学は衰退によってそのピリオドを打った。
◎江戸川乱歩
極彩色の白昼夢
筆名は、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーをもじったもの。子供から大人まで幅広い読者層から支持され、日本に推理小説(ミステリ)を広めた第一人者です。
明智小亓郎や怪人二十面相の生みの親として知られていますが、大人には猟奇と幻想、倒錯的なエロスの世界がない交ぜになった作品で高く評価されています。(ちなみに「猟奇」という言葉はもともと佐藤春夫が探偵小説を論じたときに、Curiosity Huntingという英語を「猟奇耽異(りょうきたんい)」と訳したことが始まりだとか。)
また、乱歩は多くの新人を発掘し、筒五康隆や大薮春彦なども乱歩によって才能を認められて作家になったとか。乱歩はサインの色紙にいつも「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」と書き添えたそうです。
●「江戸川乱歩氏に対する私の感想」 夢野久作
乱歩氏はズット前に、私が生れて初めて書いた懸賞探偵小説を闇から闇に葬るべく、思う存分にコキ下(おろ)されました。又、一昨年、私が或る老婦人の手記を中心にした創作(※引用者註『押絵の奇蹟』)を書いた時には口を極めて賞讃されました。…縁もゆかりもない一素人の投稿作品を、あんなにまで徹底的に読んであんなにまで真剣に批判して下すった同氏の、芸術家としての譬(たと)えようのない、清い高い「熱」によって、私がどんなにまで鞭撻(べんたつ)され、勇気付けられ、指導されたか……という事は、私自身にも想像が及ばないでいるのです。
◎夢野久作
先駆的超現実者
“ゆめのきゅうさく”とは、九州の方言で“夢にうつつをぬかす変わり者”というほどの意味。日本探偵小説の3大奇書の一つに数えられる『ドグラマグラ』を書いた作家として、異端文学の系譜の中でひときわ光芒を放っています。同書は構想を含めて10年以上の歳月をかけた大作でしたが、久作は刊行の翌年(1936)に急死。戦後1960年代になってようやく広く認められ、全集も刊行されました。
●角川文庫の帯に書かれていたコピー
「『ドグラマグラ』は、天下の奇書です。これを読了した者は、数時間以内に、一度は精神に異常を来たす、と言われます。読者にいかなる事態が起こっても、それは、本書の幻魔怪奇の内容によるもので、責任を追いかねますので、あらかじめ御諒承ください。=角川書店=」
●笠五潔 『物語のウロボロス 日本幻想作家論』
日本の本格探偵小説の三巨峰として、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、そして中五英夫の『虚無への供物』を挙げることに、それほどの異論がでるとは思われない。
◎林芙美子
花のいのちは短くて
「花のいのちは短くて 苦しきことのみ多かりき」の句で知られる林芙美子(はやしふみこ)は、明治36年に行商人の娘として門司に生れ、各地を転々とした後、大正5年に尾道に定住。女学校に入り、夜は工場に通って卒業しました。その後、好きな男を追って東京へ。
カフェの女給をしていた青春時代に書いていたノートは、その後『放浪記』としてまとめられました。若い女性らしい躍るような生き生きとした文体で、今読んでもみずみずしい青春日記の名作となっています。
●林芙美子 『放浪記』
あれもこれも書きたい。山のように書きたい思いでありながら、私の書いたものなぞ、一枚だって売れやしない。それだけの事だ。名もなき女のいびつな片言。どんな道をたどれば花袋※になり、春月※になれるものだろうか、写真屋のような小説がいいのだそうだ。あるものをあるがままに、おかしな世の中なり。たまには虹も見えると云う小説や詩は駄目なのかもしれない。食えないから虹を見るのだ。
(※花袋は、自然主義文学の作家、田山花袋。 春月は詩人の生田春月。)
◎太宰治
生まれて、すみません
かつて、思春期に太宰の作品にかぶれる“ダザイ病”というのがあったとか。熱烈なファンを持ち、よくも悪くも、読者に何かを言わせたくさせる作家です。初の作品集のタイトルが『晩年』で、その書き出しは「死のうと思っていた」。心中自殺する直前まで書いていた遺作のタイトルは『グッド・バイ』。
作品のなかで、「家庭の幸福は諸悪の本。」「子供よりも親が大事、と思いたい。」などといった名言も数多く残しました。28歳のときに、芥川賞の選考委員であった佐藤春夫や川端康成らに宛てて書いた受賞を懇願する手紙が残っています。
●昭和11年、太宰から佐藤春夫への書簡。
一言のいつはりもすこしの誇張も申しあげません。物質の苦しみが かさなり かさなり死ぬことばかりを考へて层ります。佐藤さん一人がたのみでございます。私は 恩を知つて层ります。私は すぐれたる作品を書きました。これから もつと もつと すぐれた小説を書くことができます。私は もう十年くらゐ生きてゐたくてなりません。私は よい人間です。しつかりして层りますが、いままで運がわるくて、死ぬ一歩手前まで来てしまひました。芥川賞をもらへば 私は人の情に泣くでせう。さうして どんな苦しみとも戦つて、生きて行けます。元気が出ます。お笑ひにならずに、私を助けて下さい。佐藤さんは私を助けることができます。
人妻の初恋を描いた『武蔵野夫人』や、人肉食をとりあげ戦場の極限状況を描いた『野火』などで小説家としての地位を確立。スタンダールの研究者、文芸評論家としての顔も持っています。
作家・武田泰淳の妻である武田百合子が書いた『富士日記』(泰淳との富士山荘での生活を自在な文体で記した日記文学の傑作!)の中に、大岡昇平の一家との微笑ましい交流が描かれています。
◎松本清張
推理小説に社会正義を
43歳のときに『或る「小倉日記」伝』が直木賞の候補となりましたが、その後に芥川賞の選考委員会へと回されて、芥川賞を受賞。他のみんなは純文学の作家だとみなしていたが、坂口安吾だけは「この筆力ならすごい
推理小説が書ける」と見抜いていたとか。
実際にその後推理小説に転じて、『点と線』などの社会派推理小説や、現代社会の構造的犯罪をあばこうとす
る『日本の黒い霧』などのルポルタージュ的作品など、膨大な著作を残しました。
不遇な人間が抱える“恨み”が一つの作品傾向となっている点について、大岡昇平は次のように論じていま
す。
●大岡昇平の「松本清張批判」
私はこの作者の性格と経歴に潜む或る不幸なものに同情を禁じ得なかったが、その現われ方において、これ
◎深沢七郎
生まれることは屁とおなじだ
ギタリストであり、牧場で畑仕事をし、今川焼屋を開く。飄々と好きなことをし、文学を人生の第一義としない、およそ作家らしくない作家です。
42歳のときに『楢山節考』(ならやまぶしこう)で中央公論新人賞を受賞。文学史のどんな系譜にも属さない新人の登場に批評家や読者は驚き、その作品は「残酷だ」とか「異色だ」と言われて今度は書いた深沢本人が驚いたとか。昭和36年に発表した『風流夢譚』(ふうりゅうむたん:天皇一家が革命軍に襲われる夢の話)では、掲載した中央公論社の社長邸を右翼の尐年が襲って死者が出る事件になりました。
●『言わなければよかったのに日記』 解説:尾辻克彦
私は読書が物凄く不器用な方なので、その「楢山節考」を読んでいなかった。しかしその小説が凄い小説だということは知っていた。たとえば自分の信頼する人がそれを褒めていたり、自分がちょっと首を傾げるような人がそれにケチをつけていたり、そういういろんな人の資質とその評価の言葉との距離や角度をあれこれと採集して計ってみると、その言われているところの本の価値というものはだいたい浮かび上がってくる。読書の不器用なものは、そうやって本の内容を知るのである。で凄いなあと思っていた。
◎三島由紀夫
憂国の美学者
小説以外にも戯曲や批評、エッセイ(マンガやSFまでを対象とする)など、幅広い執筆活動を行う流行作家でした。1970(昭和45)年、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて自衛隊の決起をうながす演説後に、予定通り割腹自殺。遺作となった『豊穣の海』の最終回を書き上げた直後でした。
日本の作家のなかでも特に海外での評価が高く、作家の澁澤龍彦(しぶさわたつひこ)は追悼文のなかで「自分の同世代者のなかに、このように優れた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と賞賛。 また、生前の三島は「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ」と表明していました。
●三島由紀夫による太宰治の『斜陽』批判
小説である以上、そこには多尐の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほど違った描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などという。「お母さまのお食事のいただき方」などという。これは当然、「お母さまの食事の召上り方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さえつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」などという。それがしかも庭で立小便しているのである!
◎有吉佐和子
“才女ぎらい”の才女
お姫様育ちで、頑張り屋さん。しかしマスコミから“才女”と呼ばれるのをひどく嫌っていたそうです。日本の古典芸能から現代の社会問題まで、広いテーマの作品でべストセラーを連発。いつも10個くらい書きたいものがあって、10個のナベのふたを時々あけて書きごろになるのを待っていたとか。
代表作は『紀ノ川』、『華岡青洲の妻』、『和宮様御留』など。
生前に交流があった橋本治による追悼文「誰が彼女を殺したか」は、とても優れた有吉佐和子の作家論・作品論になってます。
●橋本治 「誰が彼女を殺したか」 (『恋愛論』講談社文庫)
有吉佐和子という人は、何よりも自由になりたいと思っていた人だった。「こんな世の中嘘っぱちだわ!」と言って何もかも投げ出せたらどんなに素敵だろうと思っていた人だった。そのことを書いてしまったのが『真砂屋お峰』で、自分の作品の中でもこれだけは「好き」「書いてて楽しかったァ」と言っていた。…『開幕ベルは華やかに』で有吉さんが書いたことは、“女があっけらかんと生きるのって、すごく素敵じゃない?”ということだった。本当に、それだけを一生かかって有吉さんは言いたかったのだと思う。
◎大江健三郎
閉塞状況を撃つ
閉塞(へいそく)状況とは、出口のない、監禁されているような状態のこと。大学在学中にサルトルの“実存主義”の影響を受けた作家として登場し、『飼育』で芥川賞を受賞。実存主義は、1960年代に流行した思想で、当時は<文学と政治>が強く結びついていました。
初期の大江文学でよく話題になる作品が『セヴンティーン』。社会党の浅沼稲次郎の暗殺事件をテーマにした過激な青春小説です(その続編である『政治尐年死す』は発禁図書)。青春というのも一つの閉塞状況と言えるかもしれません。
今では反戦・反核の政治的活動でもよく知られ、1994年にはノーベル文学賞を受賞しました。
Y(090508)