日本文化史
1.日本文化史(1) 古代の文化
日本文化史を学ぶということ
文化史は嫌い(大嫌い!)という人が多いだろう。仏像が、どんな形でどんな材質で、どんな作りかたであろうと、そんなこと、どうでもいいではないか。あるいは、ある文学作品がある時代に書かれたからといって、それが、今の生活にどれだけ関係するのか、細かなことばかり問う問題ばかり出題して、だから、日本史は暗記で下らない授業なのだ!!という受験生にとれば、しごくもっともな怒りをかうテーマ。その典型が日本文化史である。
確かにそう取られても仕方がないことが多いのは事実である。入試という枠組みでこの日本文化史を見ると、まあ、かくも細かな内容を問う問題が多すぎるし、そこまで問う必要性はあるのか、というまさに「ためにする」問題(無理やり難しくするための問題)も多いことは事実である。入試の出題者が悪い!!ということはある種正しいとも思える。 だが、そうした瑣末で誰もが答えられそうにない問題については、無視し、誰もが知っているべきことだけを答えるだけで、結構点数は稼げるし、その知識は決して無駄にはならない。何より、私たちは日本というクニで生活しており、日本国籍を持とうと、そうでなかろうと、「日本」の文化や習慣の中で生活している。それは、昨日今日の短い期間に作られるものではない。だから、歴史を知ろうということなのだ。
ある人は、日本文化こそが唯一すばらしい文化だという人もいるだろうが、そうした悪しき日本文化至上主義の立場を取る必要などなく、私たち日本に住む人が、身の回りのこと(日本のこと)を理解していく上で、文化的な作品(あらゆる作品)について知ることは、自分のことを客観的に理解する上で必要なことだ。
また、「教養」程度に文化作品は知っておくべきだ、という場合でも、そう簡単に「教養」なるものは身につかないし、「教養」などというものが、おしゃれな衣服のように解釈されること自体が変である。「教養」などというものは、「常識」とは違い、それを知ることで(逆に言えば知らない場合も)、日常生活上、直接、何らかの「得」(プラス)に繋がるものではない。一方、「常識」はそうではない。例えば、誰かの部屋に入る場合、部屋のドアをノックし、自分の名前を告げ、ドアを開け、入室の許可を得てから(つまり、部屋の主に「どうぞ」と言われてから)入室する。そして用件を告げる。ということは、当然の「常識」である。こうした「常識」=「Social Skill(=ソーシャル・スキル=社会生活をするために誰もが知っている必要がある事柄)」は、身についていない(今書いたそれこそ「常識」を身につけていない学生がいることは事実だ!)と、言葉通り「常識」を知らない人として、日常生活をする上で、おそらく排除とまでは言わないが、相手にされなくなるだろう。
ところが、「教養」は、それほど直接的な意味合いはない。しかし、あるとないとではや
はり違う。どこがか。「教養」があるということは、単に「物知り」だというのではなく、うまく表現できないが、その人の人間的な深み――例えば、この人はきちんとした考えを持っている。自分よりたくさんの知識から判断しているといった評価――を感じさせるものだと思う。そうした「教養」なるものは、そう簡単に一挙に身につくものではないし、受験勉強という限定された学習だけで身につくものではない。確かに、受験勉強をしている間は、答えることが可能だった事柄も、受験を経て何年もすれば、忘れてしまい、答えられなくなってしまう。それはそれで良いのではないか。そもそも入試を「ウルトラクイズ」化している大学入試自体がおかしいのだから。忘れてもいい。日本文化史というもの
が、そうか、こういうことだったのか、という風に理解してもらえれば嬉しい限りである。 それが、これから何回かに分けて説明するこのコーナーの果たす役割だと言って良いだろう。あまり、嫌わずにつきあって欲しい。
1.飛鳥文化
ところで、縄文文化や弥生文化、古墳文化ということを学びながら、これらを日本文化史の中に入れないのは何故か。もちろん、こうした文化を日本文化史の中に入れて説明することはできるし、日本文化史について記された著作のいくつかには、これらの文化を説明しているものもたくさんある。ただ、縄文以降古墳までの文化は、当時の人々の生活と密着していて、そちらからの説明が中心である。つまり、古墳(前方後円墳や鏡)などを別にすれば、この時代に作られた作品は、誰かが特別の理由で作ったというものではない。ところが、飛鳥文化以降は、誰かが――たいていの場合はその時々の権力者が――特別の理由で、誰かに作らせたものが多い。その点で、生活文化を基本とする縄文以後古墳までの文化とは異なる。
とすれば、古代や中世、特に古代の場合は、私たちは権力者が作り上げた文化について学ぶことになる。だから、おもしろくない、とも言えるが、文化なんてそもそも、ゆとりのない人間が作り出したり、受け入れたりすることができなかった時代のものだと理解すれば、そう違和感なくとらえることができる。権力者が生み出した文化作品が次第に多くの人々にどのように受け入れられるようになったのか、という風に考えてもらえば良いだろう。それでいて、それぞれの作品は時代を超えて私たちを感動させることにも繋がる。それこそが文化の持っている力なのだろう。
①飛鳥文化の特色
①推古朝を中心とした時代の文化である。②飛鳥とは、当時の宮があった場所であり、ここを中心とした文化である。③渡来人や蘇我氏を中心に信仰されていた仏教が国家の保護を受けながら広がっていった仏教文化である。
②仏教の広がり
仏教公伝(538年ないし552年)以後、仏教が広がっていった。これは、594年、仏教興隆の詔が出されたことにも関係があるだろう。これまでの日本の宗教は、後に神道とよばれる原始的な信仰が中心であった。自然を崇拝の対象とし、あらゆるものに魂が存在すると考え、それを恐れ、敬うというものだった。しかし、こうした原始的な信仰とは異なる教えが中国・朝鮮を通じてもたらされたのである。
しかし、当時の人々が、仏教を一つの体系だった教えとして理解していたかといえば、おそらくそうではなかったと言わざるを得ない。当時、呪術的な信仰しか存在しなかったわけで、仏教も同様のものとして理解された。そのことは、仏教公伝の史料で仏教のことを「蕃神」と記していることからも理解できる。よその国のわけがわからない神様。そんなものを取り入れて果たして大丈夫なのか、ということだった。もちろん、それ以後仏教に対する誤解は解かれたが、仏教を受け入れる基盤自体が、呪術的なものであったために、仏教の体系的な理解より、現世利益を重視するものになったことは否定できない。
こうした仏教に対する理解が一般的だった当事、ほとんど唯一、仏教本来の立場に立つ理解をした人物が聖徳太子(厩戸皇子)だった。彼は、高句麗僧恵慈と百済僧恵聡を師として仏教を学んだとされる。太子は法華経・勝鬘経・唯摩経の3つの注釈書として『三経義疏』を作成したといわれているが、否定する人もいる。また、彼は生前、「世間虚仮唯仏是真」と語ったと『上宮聖徳法王帝説』に記されている。同じ言葉は天寿国繍帳(→以下に記述)にも刺繍されており、「世の中は移りかわりにして、ただ仏のみこれ真ぞ」という意味である。仏教について、現世利益としてでない理解をしており、当時の仏教理解としてすぐれたものだった。
③寺院の建立
寺院は、古墳に代わる新たな権威の象徴として造られた。確かにそうだろう。古墳は、確かに巨大であるが、巨大すぎて人々にすれば、山のような自然そのものと同じようにしか見えなかっただろう。ところが、寺院は古墳とは決定的に違う。平屋しかない土地に突如、背の高い新築の高層マンションが建ったようなものである。瓦葺など見たこともない人にとれば、それだけで驚きの目で見られたはずだ。
この時代、豪族ごとに氏寺が建立された。蘇我氏が建立した飛鳥寺(法興寺)、聖徳太子(厩戸皇子)が発願した四天王寺と法隆寺(斑鳩寺)、秦河勝の広隆寺などがそれである。 法隆寺は、『日本書紀』によると670年、落雷によって焼けたとされている。この記述をめぐり明治以来、再建されたものであるかどうかの論争がなされてきた(法隆寺再建論争)。1939年から法隆寺の発掘が続けられ、若草伽藍跡が発見されたことにより、現在では通常、再建されたものだと考えられるようになった。
ところで、寺院の伽藍配置については注意すべきだ。教科書に掲載されている図に注意しておくべきだ。何故か難関私大で、この図が出題され、○○式か、という設問がされて
いる。入試でいえばそうなるのだが、そもそも、伽藍配置についての説明もなく、覚えておけ、と言われるから余計理解できないのだ。
そもそも、寺院は本来、仏舎利(お釈迦様の骨、なんてものは、もうこの時代にはないから、お釈迦様の骨という名目で宝石などが利用された)を安置するための塔が重視された。もとは塔が寺院の中心だったのである。塔の形を思い出してくれれば良い。墓に何となく似ていないだろうか。お墓のモニュメントが塔である。
しかし、次第に時間が経つと仏像を安置する金堂が寺院の中心になってきた。これからも理解できるように、お釈迦様に対する直接的な信仰から、仏像に対する信仰に変化していったのである。伽藍配置の変化は、飛鳥寺→四天王寺→法隆寺→薬師寺→東大寺の順になる。飛鳥寺式とは、高句麗の伽藍配置に似たもので、金堂が北と東西にある。四天王寺式は、塔と金堂が縦に一直線に並ぶ。法隆寺式は。左右対称が崩れ、塔と金堂が横並びである。薬師寺式は、塔が東西2つになり、中心には金堂がある。東大寺式は、東西2つの塔は歩廊(回廊)の外に置かれ、金堂=大仏殿が中心になる。
④仏像・絵画・工芸
この時代の仏像は、木像が中心である。様式は、男性的な顔立ちの北魏式と柔和な南朝式がある。北魏式の法隆寺金堂釈迦三尊像は、鞍作鳥の作で、金銅像である。南朝式の中宮寺と広隆寺の弥勒菩薩像(半跏思惟像)も有名である。
絵画では、法隆寺の玉虫厨子の扉絵などが知られている。これは油絵の一種の密陀絵と考えられている。
工芸では、聖徳太子の死後、橘太郎女が天寿国(浄土)をイメージして刺繍させた天寿国繍帳がある。また、忍冬唐草文様がある。これは、エジプト→中国経由でもたらされたといわれる。さらに、高句麗僧曇徴は、紙・墨・絵の具を610年にもたらした。さらに、602年に来日した百済僧観勒により、暦も伝えられた。
2.白鳳文化
天武・持統朝を中心とする時代の文化を白鳳文化という。但し、「白鳳」という年号は存在しない。
①白鳳文化の特色
前の飛鳥文化が、中国南北朝期の文化の影響を受けているのに対し、白鳳文化は、初唐文化の影響を受けている。この点に違いがあるが、両者に大きな相違点はない。ただ、律令国家形成期の文化であるだけに、その時代精神が表現されているとはいえるだろう。
②仏教興隆
天武による仏教興隆政策により官立寺院制が確立された。なかでも、藤原京の四大寺はどんちょうたちばなのおおいらつめぶっしゃり
よく知られている。四大寺とは、大官大寺(元は百済大寺→大官大寺→平城京では大安寺)、薬師寺、法興寺(元興寺)、川原寺(弘福寺)である。薬師寺は、天武天皇が、持統の病気平癒のために建てた寺であり、その東塔は、それぞれの階に裳階を持つ三重の塔である。また、地方にも寺院が建立された。その出土例は500ヵ所を越す。こうした寺院建立と共に、一切経(重要な経典を集成したもので、大蔵経ともいう)の写経も行われた。
③仏像・絵画・文芸
この時期の仏像は、金銅像が中心だった。薬師寺金堂の薬師三尊像は、中央に薬師如来が、その脇に立像の日光・月光菩薩がある。同じ薬師寺の東院堂にある聖観音像と共にインドのグプタ朝の影響を受けている。また、蘇我倉山田石川麻呂が建立した山田寺の本尊だった薬師如来の頭部は、現在は興福寺にある。
絵画の代表作は、法隆寺金堂の壁画が知られている。1949年、主要部分が焼け、文化財保護法制定の契機となった。作品は、インドのアジャンタ壁画の影響を受けている。壁画にはこれ以外に、1972年に発掘された高松塚古墳の壁画(管理のミスで見るも無残な姿になってしまった!)と1991年発掘された鳥取県の上淀廃寺の壁画が知られている。高松塚古墳の壁画は、男女の群像だけでなく、天井には星座、東壁には青龍、北壁には玄武などの中国の伝説上の動物が描かれている(描かれていたが、先に記したように、管理のミスでほぼ消えてしまった!)。上淀廃寺はかつて法隆寺と同時期の壁画があったことが確認されており、その断片400枚が発見されている。
文芸では、漢詩・和歌の広まりをあげることができる。漢詩の代表者として大津皇子が、和歌の代表者として柿本人麻呂と額田王が知られる。
3.天平文化
聖武・孝謙天皇の時代を中心とする文化を天平文化という。この文化の特色は、盛唐文化の影響を受けた貴族文化である。
①仏教(国家仏教)
この時代の仏教は、国家の保護。監督を受けて発展した。国家を守り、保護する鎮護国家のための仏教である。国家の保護は一方で僧侶の支配・統制という側面を持つ、そのための法を僧尼令という。僧侶や尼僧になるためには、国家から承認されねばならず、勝手に僧侶や尼になることは不可能だった。
奈良時代の仏教を総称して南都六宗という。現在の教団組織の宗派ではなく、学派であり、一寺院にいくつかの学派があり、ある学派に属する僧が他の学派を研究することも可能だった。六宗は、奈良時代以前から伝えられた三論・成実・法相・倶舎と奈良時代に伝えられた華厳・律に大別される。華厳宗は道璿が唐から伝えたもので、良弁が広めた。律どうせんもこしぐふくじ
宗は鑑真が来日して伝えられたものである。これらは南都七大寺と総称される寺院を拠点に活動を行った。それは、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺・西大寺・法隆寺である、
さらに、鑑真が東大寺に設けた戒壇についても触れておく。戒壇とは、僧侶となる資格を与える儀式を行う場所のことである、日本には鑑真が来日するまでなかったことが、そもそも鑑真来日要請の理由であった。東大寺以外に下野薬師寺(道鏡が左遷された)・筑紫観世音寺(玄昉が左遷された)を合わせて天下の三戒壇という。
国家仏教とは別に民衆と結びついた僧侶も現れた。法相宗の道昭は、各地を歩き今でいう社会事業(慈善救済)を行った。この道昭の弟子で、大仏造立に尽力した行基は、民間布教をし、各地に橋や灌漑施設を造ったりしたことで政府の弾圧を受けたが、その後その功績を買われ、大仏造立の際には勧進聖(費用を集める僧侶のこと)になっている。さらに、光明皇后は、貧窮者や孤児救済のために悲田院や施薬院を設けた。和気清麻呂の姉、和気広虫(法均尼)は、恵美押勝の乱に連座した人々を助け、孤児を救済した。
②建築・仏像・絵画・工芸
寺院建築では、東大寺三月堂(法華堂)や校倉造で知られる正倉院宝庫や唐招提寺金堂などが知られる。唐招提寺講堂は、平城京の朝集殿を移築したものといわれている。
仏像は、この時代塑像と乾漆像の様式を持つものが中心であった。しかも、東大寺に仏像が集中していることにも注意すべきだろう。塑像とは、像の中心を木で作り、その木に荒縄を巻きつけ像を作るものである。乾漆像は、土でおおよその形を作り、その上に麻布を貼り、漆で固めるものである。塑像では、東大寺法華堂の日光・月光菩薩、同戒壇院の四天王像がある。乾漆像は、東大寺法華堂の不空羂索観音像、唐招提寺の鑑真像がある。 絵画では、仏画である薬師寺吉祥天像(吉祥天は福徳を司る女神で、奈良時代にもてはやされた)、風俗画である正倉院鳥毛立女屏風(樹下美人像)が知られる。さらに、絵巻物のはじまりとも言われる現在過去絵因果経がある。
工芸では、聖武天皇の遺品を中心に正倉院の宝物があり、シルクロードを経てもたらされた工芸品が多数ある。なかでも白瑠璃椀や螺鈿紫檀五弦琵琶が有名である。
③文学・史書・教育・その他
文学では、漢詩と和歌が作られた。漢詩では淡海三船・石上宅嗣が知られる。淡海三船は、大友皇子の曾孫で、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記している。漢詩の最古のものは『懐風藻』である。和歌は、約4500首が集められた『万葉集』が作られた。この時期の歌人には、山上憶良・山部赤人・大伴旅人・大伴家持がいる。
律令体制の発展に伴い史書(歴史書)も作られた。元明天皇が稗田阿礼に暗誦させたものを太安万侶が筆記した『古事記』と、720年舎人親王は作成した『日本書紀』がある。両者の相違は、『古事記』が紀伝体(出来事ごとに記されている)であるのに対し、『日本書
紀』は編年体(年表のように古いものから新しいものの順に)記されている。また、713年に作成を命じられた『風土記』は、播磨・常陸・出雲・肥前・豊後の5カ国のものが残っているだけだが、『出雲国風土記』は完本である。
教育機関として、中央には大学、地方には国学が置かれた。大学は、式部省管轄で五位以上の貴族の子弟が学び、国学は、国司の管轄で、郡司の子弟が学んだ、学科は、明経道(儒学)・明法道(法律)。紀伝道(文章道)などが学ばれた。
これらとは別に、称徳天皇が作らせた百万塔陀羅尼という最古の印刷物もある。
伎楽は、舞楽であるが、インド系のもので中国から伝えられたとされる。伎楽面は、正倉院・法隆寺に残っている。以前から伝わっていた朝鮮系のもの以外に、唐楽・渤海楽・林邑楽もある。
4.弘仁・貞観文化
桓武~清和天皇までの文化を弘仁・貞観文化という。この文化の特色は、唐文化の影響を受け、これを消化・吸収した文化であったことである。
①平安期の仏教(新仏教)
奈良時代の南都六宗に対する批判が生じ、新仏教が台頭する。最澄の天台宗と空海の真言宗である。彼らは804年、共に中国に渡った。最澄は翌年帰国する。彼は中国で天台宗を学び、帰国後は南都教団からの独立を図るため比叡山に延暦寺を建立した。最澄は、大乗戒壇の設立をめざし、自らの立場を鮮明にするため、820年に『顕戒論』を著した。ついで、延暦寺の学生(「がくしょう」と読みます。仏教を学ぶ僧侶のことを指します。もともと私たちが使っている学生「がくせい」という言葉や大衆=「たいしゅう」などは仏教用語で、仏教からたくさんの言葉が日常語となって使われているのです。ちなみに大衆は、仏教用語では「だいしゅ」ですが)の指導方針を明確にするため、『山家学生式』も著した。しかし、天台宗が公認されたのは、最澄が死んでからのことだった。
一方、空海は、中国から真言宗という密教をもたらした。密教の経典は『大日経』と『金剛頂経』であった。従来の仏教が釈迦の教えを、経典を通じて学び、修行をして悟りを開く顕教であったのに対し、大日如来を中心仏とし、諸仏を称える真実の言葉(真言)を心に念じると不思議な力が生じるという多分に呪術的な要素を持つ密教は、当時の貴族に受容された。空海は、密教の道場として高野山に金剛峰寺を開き、823年には嵯峨天皇から東寺(教王護国寺)を与えられている。空海の著した『三教指帰』は、儒・仏・道の三教のうち仏教がもっともすぐれたものだと説いた著書である。空海の晩年、宮中では後七日みしほごしちにちの御修会という行事が執り行われるようになり、そのための施設として宮中真言院が作られるようになった。
ところで、天台宗は、その後円仁・円珍の時に密教化していった。円仁と円珍は、天台
宗の座主をめぐって対立し、円珍の一派が比叡山を下り、園城寺(三井寺)に拠点を設けた。そこから、円仁のグループを山門派、円珍のグループを寺門派という。なお、円仁は、『入唐救法巡礼行記』を著している。
②神仏習合・神社
こうした仏教と在来の信仰とが結びつき、神仏習合が進んでいく。神仏習合自体は、奈良時代からはじまったもので、日本の神々が仏教によって救済を求めているという考えである。その表れとして神前読経、神宮寺建立、僧形八幡神像などが作られるようになった。また、山岳宗教と密教が結びつき、修験道が広まっていった。修験道の中心は、奈良の大峰山や北陸の白山である。
また、都では疫病や恨みを残して死んだ霊魂をまつる御霊信仰が起こり、平安京の神泉苑では御霊会が行われた。さらに、都では賀茂神社に対する信仰も盛んとなり、奈良の春日大社・下総の香取社・常陸の鹿島社などが貴族の崇敬を集めた。
③教育・文学
この時代は教育も盛んになった。特に大学では文章道が重視された。また、貴族の子弟のために大学別曹も作られた。このうち代表的なものをあげると、和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院がある。これとは別に庶民に開かれた教育機関として空海が開いた綜藝種智院がある。
文学では、奈良時代と同じく漢詩が盛んであった。最初の勅撰漢詩集である『凌雲集』が814年に作られ、818年には『文華秀麗集』が、827年には『経国集』が作られた。勅撰のものとは別に、空海は詩論書として『文鏡秘府論』を著した。また、空海の弟子の真済は、空海の漢詩を集め、『性霊集』(遍照発揮性霊集)を作った。空海以外には、菅原道真が詩人として知られる。『菅家文草』は道真の少年時代から大臣時代の漢詩が集められ、『菅家後集』は、大宰府左遷後の漢詩が集められている。また、道真は、892年、六国史の内容を部門別に『類聚国史』を記している。これら以外には822年、僧景戒が著した漢文体の説話集『日本霊異記』や、氏族の成り立ちを明らかにする目的で作成された『新撰姓氏録』がある。
④美術作品
この時代、密教が隆盛だった関係で、密教の影響を受けた作品や建築が多いことが特徴である。寺院建築は山中に寺院が作られることとなり、伽藍配置が崩れ、自由なものとなっていった。桧皮葺の屋根を持つ室生寺の金堂や五重塔がその代表である。
絵画にも密教の影響が及んでいる。大日如来を中心とする仏の宇宙を示した曼荼羅のうち、神護寺の両界曼荼羅が知られている。ここでいう両界とは、大日如来の力が金剛石のように強いことを示す金剛界とその力が子の胎内にあることを示す胎蔵界のことである。
また、大日如来の使者である不動明王への信仰も広まり、園城寺の黄不動に代表される不動明王像が描かれた。
仏像では、この時期、一木造と翻波式の様式を持つものが作られる。木像が中心で、密教の神秘性を示す観心寺如意輪観音像や、元興寺の薬師如来像などが知られる。さらに、書道では、唐風が広がり、三筆とよばれた嵯峨天皇・橘逸勢・空海が有名である。
5.国風文化
摂関政治期、10世紀以降の文化を国風文化という。唐文化を消化・吸収し、自らの文化を生み出したもので、「藤原文化」というよびかたもある。
①仏教
仏教では、密教の広がりがある。また、11世紀後半には神仏習合の理論として本地垂迹ほんちすいじゃく説が生まれた。密教とは別に浄土教が広がっていく。10世紀半ば、空也が浄土教を都で説いて回った。ついで、天台僧源信による『往生要集』が985年成立した。1052年、末法の世が到来する。このため、浄土教はますます広がっていった。末法思想とは、釈迦入滅後を正法→像法→末法に区分し、仏教の教えが衰えるという予言思想である。末法の世に入った翌年、藤原頼通は、宇治平等院鳳凰堂を建立した。また、念仏の功徳で往生したという人々の伝記=往生伝も作られた。(「私は極楽に行った!」、「私は死後の世界を見た!」なんていう類の本。そんなバカな!!)慶滋保胤の『日本往生極楽記』、三善為康の『拾遺往生伝』などが知られている。なお、慶滋保胤は『朝野群載』という漢詩集を作ったことでも知られる。
②建築・美術・音楽
浄土教の影響は、阿弥陀堂建築という形で影響を及ぼした。藤原道長が建てさせた法成寺内の無量寿院や頼通の平等院鳳凰堂などである。
彫刻も阿弥陀如来像が作られた。多数の仏像の注文が殺到したため、仏師定朝とその集団は、寄木造という新しい様式を生み出した。絵画でも、大和絵が描かれはじめた。画家としては巨勢金岡が知られている。また、浄土教の絵画=来迎図が描かれ、高野山聖衆来迎図や鳳凰堂扉絵が有名である。
音楽についても触れておく。奈良時代に唐楽・高麗楽といった舞楽が演じられてきたが、音楽も次第に国風化し、雅楽へと発達した。また、密教の広がりと共に天台声明や真言声明も演じられた。後に声明と舞楽が一体となっていき、今日、四天王寺聖霊会にそのおもかげが残っているとされる。
工芸品では、蒔絵がたくさん作られた。蒔絵とは、漆器に模様を描いて金銀の粉をまきつけるもので、特殊技法として貝を薄く削り模様としてはめ込む螺鈿も発達した。 らでんまきえががくこまがくよししげやすたね
③国文学の隆盛
すでに8世紀には、日本人は漢字を表意文字としてではなく、表音文字として使用する方法を学んでいた。まずできたのが、万葉仮名である。この仮名から、平仮名と片仮名が誕生した。平仮名は漢字を草書体に崩し、簡略化したもので、女性の草書から発達したものであろう。片仮名は寺院などで漢字を読解・翻訳する時、その音訓を余白部に記した記号として使われたとされる。こうした仮名を利用し、自由な表現が可能になっていったといえよう。
詩歌は、仮名を利用した和歌が盛んとなっていった。なかでも六歌仙が有名である。僧正遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主である。905年には醍醐天皇の勅撰で『古今和歌集』が作られた。古今集以後、後撰・拾遺集をあわせて三代集とよび、後拾遺・金葉・詞歌・千載・新古今までを八代集という。これとは別に藤原公任が歌謡を集めた『和漢朗詠集』が作られている。
物語文学には2つの流れがある。1つは口承文芸であり、もう1つは和歌の前書きに記した詞書きから発生した歌物語である。『源氏物語』で「物語の祖」とされた『竹取物語』は口承文芸から発生したものであり、在原業平を主人公とした『伊勢物語』は歌物語のはじめといわれている。この2つの作品を受け継いだ作品が『落窪物語』である。こうした流れの中から紫式部の『源氏物語』が生まれる。随筆では清少納言の『枕草紙』がある。(両方の作品とも、橋本治による現代語訳がある。特に、『枕草子』は桃尻語訳『枕草子』というもので、現在では文庫で購入できる。貴族社会についてのかなり詳しい説明がされているので、是非読まれることをお勧めする。解説・現代語訳が斬新で、女官=キャリアウーマンなどとされている。)
日記文学では紀貫之の『土佐日記』がある。冒頭に「男もすなる日記を」とあるように、日記は通常、貴族の男性が漢文で記すものが普通だった。女性の日記では藤原道綱の母の『蜻蛉日記』や菅原孝標の娘の『更科日記』が知られる。
書道も国風化し、和風の三蹟、小野道風・藤原佐理・藤原行成の作品が知られる。
④貴族の生活
住居は寝殿造である。白木造の桧皮葺で中央に寝殿(正殿)があり、北の対屋・東西の対屋・釣殿・泉殿があり、透渡殿で結ばれている。服装は、男子の場合は束帯と衣冠をつけ、女子は唐衣や裳をつけた十二単がある。食事は朝夕2回、鳥・魚以外の肉は食べなかった。また、10~15歳で男は元服、女は裳着の儀式を行い成人として扱われた。
6.院政期の文化
古代から中世への移行期の文化は、新たに台頭した武士・庶民や地方の文化を取り入れたものである。この時代、摂関家の王朝文化へのあこがれも生じた。 すきわたどのおや
①仏教
浄土教は各地方にも広がり、都から遠く離れたツ土地に阿弥陀堂が作られた。陸奥平泉には、藤原清衡ら奥州藤原氏の栄華を示す中尊寺金色堂が建てられた。藤原基衡は、平泉に毛越寺を建立し、浄土庭園を残している。他には、白水には白水阿弥陀堂が、豊後には富貴寺大堂が建てられている。なお、鳥取県の三仏寺投入堂は、修験道の修行に使われた建物で、阿弥陀堂ではない。この時代に、浄土教が各地に伝えられたのは、一般の教団から離れて活動していた聖によることもつけ加えておく。
②文学
すでに正史は作られなくなった。これに代わり仮名書き・和文で記された歴史物語が著わされている。四鏡のはじめである『大鏡』がそれである。190歳の大宅世継(公の歴史という意味を持つ)と170歳位の夏山繁樹の2人の会話を若侍が聞くという形式を取ったもので、藤原道長をテーマにした作品である。主人公の名にちなんで、『世継物語』ともいう。道長をテーマにした作品にはこれ以外に、『栄華物語』がある。前者との違いは、前者が道長に対し批判的であるのに対し、後者は、まさに道長の栄華が描かれている。特に『栄華物語』の中で道長が死ぬ時、御堂の中で極楽浄土を願った場面はよく知られている。
武士の台頭を示す作品も著わされた。軍記物語である。将門の乱を記した『将門記』がある。また、将門の乱については、『今昔物語』でも描かれている。さらに、前九年の役を記した『陸奥話記』もある。
庶民の姿を取り上げた『今昔物語』は、インド・中国・日本の仏教説話が中心であるが、その世俗部には当時の庶民の生活が描かれている。また、庶民の間で流行していた今様を集めた『梁塵秘抄』は後白河法皇の編纂である。
③絵画
絵画では、詞書きと絵を合わせた絵巻物がたくさん描かれるようになった。「源氏物語絵巻」は藤原隆能の作品といわれる。この作品では、人物を引目鉤鼻で、家屋を吹抜屋台という手法で描いている。応天門の変を扱った「伴大納言絵詞」は、常盤光長の作品といわれる。また、信貴山にこもり修行した僧命蓮の奇蹟を描いた「信貴山縁起絵巻」は、第1巻の飛倉の巻が有名である。動物を擬人化した「鳥獣戯画」は、鳥羽僧正覚猷が描いたとされる。これら以外に装飾経の一つである「扇面古写経」には当時の庶民の姿が描かれており、水汲みの女性や裸の子どもの姿がよく知られている。安芸国の厳島神社には法華経や阿弥陀経を装飾した「平家納経」が収められている。 もうつじ