日本民族起源
日本民族の起源きげんには不明な点が多いが、日本の乳児にゅうじの多くが、臀部でんぶに蒙古斑もうこはんと言う斑紋はんもんがあるところから、アジア蒙古人種じんしゅに属しょくするといわれている。
きゅうせっき時代から人間が住んでおり、そのころの石器や人骨じんこつも発見はっけんされている。
従来じゅうらいから、この人たちは現在の日本人とは異なる先住民族であって、後からに日本人の祖先が入ってきて、先住民族を駆逐くちくしたと考えさていた。しかし、最近の研究では、日本人の祖先は旧石器時代の住人にほかならず、その後、中国、朝鮮、東南アジアなどからたくさんの人が日本に移住して文化を伝え、次第に混血して現在の日本人になったと考えられている。
紀元1世紀ごろ、日本の各地に100余の小国が分立していたが、その後これらの国々は次第に統一されていった。
4世紀には、関西地方に比較ひかく的大きな国ができたが、最後にこれを統一とういつしたのが現在の天皇家の先祖せんぞである。このころの日本の国の範囲は、本州の西半分と九州の北半分および四国であった。
このように長い期間をかけて徐々じょじょに国が統一されていったので、何年何月をもって国が生まれたと決めることができない。8世紀に作られた史書ししょ「古事記」こじきおよび「日本書紀」には、紀元前660年に初代しょだいの神武じんむ天皇が建国し即位そくいしたを書かれている。その即位の日が現在の暦こよみでは2月11日に当たるため、この日を「建国記念の日」として祝日しゅくじつとしている。
1-2万年前まで日本は、アジア大陸と陸続きであったが、地殻変動ちかくへんどうや海水面の上昇により大陸から離れた。島国であったため外国の侵略を受けにくく、しかも大陸とそれほど離れていなかったので、外国の進んだ文化を取り入れることができた。そこで大陸文化とは共通性を持ちながら、独自性どくじせいの高い日本文化を育てて今日にたっている。
1万年前から紀元前3-2世紀ごろまでの縄文じょうもん時代は、主に狩猟しゅりょう、漁業ぎょぎょう、採集さいしゅうなどによって生活していた。その後、3世紀までの弥生時代には稲作いなさくを行い金属器きんぞくきを使い、日本人の生活の原型げんけいを作った。小さいな国々が分立していたが、次第に統一されていった。
4世紀に天皇が日本を統一し、大陸から文字、制度、仏教、儒教じゅきょう、工芸こうげい技術などの文物ぶんぶつを導入どうにゆうして国の基礎きそを固めた。このころ天皇は、有力ゆうりょくの豪族ごうぞくの協力によって政治を行っていた。国民は主として稲作中心の農業に従事じゅうじしていた。
7世紀中国(唐)の制度に習って法治ほうち国家こっか体制(律令りつりょう政治)を作った。土地と人民は、豪族の支配から離れて国のものとなり、一般農民は一人2,300平方メートルの土地を国から与あたえられて一定いっていの税金ぜいきんを納おさめ、国防こくぼうにも従事することになった。
しかし、この制度も8世紀から崩れくずれ始め、貴族が土地を私有しゆうして荘園しょうえんにしていった、貴族きぞくは土地と人民を支配して富とみを蓄たくわえ、独自の貴族文化を形成けいせいした。
貴族に使われていた武士ぶしは、各地方で農民を直接支配することによって力をつけ、12世紀の終わりに政権を取り、以後19世紀終わりまで約700年間政権を持ち続けた。
武士の棟梁どうりょう(包括ほうかつ統率とうそつ者)は天皇から征夷大将軍せいいたいしょうぐん(北方ほっぽう敵部族討伐とうばつ軍の大将)に任命にんめいされて幕府ばくふを設もうけ、各地域の封建領主ほうけんりょうしゅ(鎌倉かまくら時代は「御家人」、室町むろまち時代は「守護しゅご大名だいみょう」、江戸時代は「大名」)を支配した。これらの封建領主は、土地と人民を支配することについて将軍から承認しょうにんを受け、将軍に対して忠誠ちゅうせいを誓った。
17世紀はじめから幕府は外国の外交関係を断たち、外国との往来を禁止した。これが鎖国さこくである。また、国内的には「士農工商」と言う身分みぶん制度(相互間の移動を禁じて厳格げんかくな社会階級かいきゅう制度)が実施じっしされた。この時期の主産業は農業であったが、次に工業および商業が盛んになり、18-19世紀には平和な時代が続いたため商人階級の経済力が武士階級を圧倒あっとうし、幕府の支配制度を揺るがし始めた。また、文化、教育の発展も目覚ましく、次の近代国家発展期の基礎を作った。