4 芥川龙之介-杜子春 原文
杜子春
芥川龍之介
一
ある春の日暮れです。
唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
若者は名を杜子春といって、元は金持ちの息子でしたが、今は財産を費いつくして、その日暮らしにも困るくらい、憐れな身分になっているのです。 なにしろそのころ洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌をきわめた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門いっぱいに当たっている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、トルコの女の金の耳環や、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のような美しさです。
しかし杜子春は相変わらず、門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺めていました。空には、もう細い月が、うらうらとなびいた霞の中に、まるで爪の痕かと思うほど、かすかに白く浮かんでいるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きているくらいなら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかもしれない」
杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落とすと、じっと杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考えているのだ」と、横柄にことばをかけました。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」
老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答えをしました。
「そうか。それはかわいそうだな」
老人はしばらく何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている
夕日の光を指さしながら、
「ではおれがいいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当たる所を夜中に掘ってみるがいい。きっと車いっぱいの黄金が埋まっているはずだから」
「ほんとうですか」
社子春は驚いて、伏せていた眼をあげました。ところがさらに不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当たりません。その代わり空の月の色は前よりもなお白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二、三匹ひらひら舞っていました。
二
杜子春は一日のうちに、洛陽の都でもただ一人という大金持ちになりました。あの老人のことばとおり、夕日に影を映してみて、その頭にあたる所を、夜中にそっと掘ってみたら、大きな車にも余るくらい、黄金が一山出て来たのです。 大金持ちになった杜子春は、すぐにりっぱな家を買って、玄宗皇帝にも負けないくらい、ぜいたくな暮らしをしはじめました。蘭陵の酒を買わせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変わる牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、そのぜいたくをいちいち書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならないくらいです。 するとこういううわさを聞いて、今まで路で行き合っても、あいさつさえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日ごとに数が増して、半年ばかり経つうちには、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もないくらいになってしまったのです。杜子春はこのお客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りのまた盛んなことは、なかなか口にはつくされません。ごくかいつまんだだけをお話ししても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒をくんで、天竺生まれの魔法使いが刀を呑んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏しているという景色なのです。
しかしいくら大金持ちでも、お金には際限がありますから、さすがにぜいたくやの杜子春も、一年二年と経つうちには、だんだん貧乏になりだしました。そうすると人間は薄情なもので、昨日まで毎日来た友だちも、今日は門の前を
通ってさえ、あいさつ一つして行きません。ましてとうとう三年めの春、また杜子春が以前のとおり、一文なしになってみると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
そこで彼はある日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現わして、
「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥ずかしそうに下を向いたまま、しばらくは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じことばをくり返しますから、こちらも前と同じように、
「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。
「そうか。それはかわいそうだな。ではおれがいいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当たる所を、夜中に掘ってみるがいい。きっと車にいっぱいの黄金が埋まっているはずだから」 老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、かき消すように隠れてしまいました。
杜子春はその翌日から、たちまち天下第一の大金持ちに返りました。と同時に相変わらず、仕放題なぜいたくをし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使い――すべてが昔のとおりなのです。
ですから車にいっぱいあった、あのおびただしい黄金も、また三年ばかり経つうちには、すっかりなくなってしまいました。
三
「お前は何を考えているのだ」
片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。もちろん彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやりたたずんでいたのです。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」 「そうか。それはかわいそうだな。ではおれがいいことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当たる所を、夜中
に掘ってみるがいい。きっと車にいっぱいの――」
老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手をあげて、そのことばをさえぎりました。
「いや、お金はもういらないのです」
「金はもういらない? ははあ、ではぜいたくをするにはとうとう飽きてしまったとみえるな」
老人はいぶかしそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。 「何、ぜいたくに飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです」
杜子春は不平そうな顔をしながら、つっけんどんにこう言いました。 「それは面白いな。どうしてまた人間に愛想がつきたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持ちになった時には、世辞も追従もしますけれど、いったん貧乏になってごらんなさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持ちになったところが、なんにもならないような気がするのです」
老人は杜子春のことばを聞くと、急ににやにや笑いだしました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか」
杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼をあげると、訴えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私にはできません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません、あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜のうちに私を天下第一の大金持ちにすることはできないはずです。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えてください」
老人は眉をひそめたまま、しばらくは黙って、何事か考えているようでしたが、やがてまたにっこり笑いながら、
「いかにもおれは峨眉山に棲んでいる、鉄冠子という仙人だ。初めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持ちにしてやったのだが、それほど仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、こころよく願いを容れてくれました。
杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人のことばがまだ終わらないうちに、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子にお時宜をしました。 「いや、そうお礼などは言ってもらうまい。いくらおれの弟子にしたところ
で、りっぱな仙人になれるかなれないかは、お前しだいできまることだからな。――が、ともかくもまずおれといっしょに、峨眉山の奥へ来てみるがいい。おお、幸い、ここに竹杖が一本落ちている。ではさっそくこれへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」
鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口のうちに咒文を唱えながら、杜子春といっしょにその竹へ、馬にでも乗るようにまたがりました。すると不思議ではありませんか。竹杖はたちまち竜のように、勢いよく大空へ舞い上がって、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
杜子春は胆をつぶしながら、恐る恐る下を見おろしました。が、下にはただ青い山々が夕明かりの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞にまぎれたのでしょう)どこを探しても見当たりません。そのうちに鉄冠子は、白い鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱いだしました。
朝に北海に遊び、幕には蒼梧
袖裏の青蛇、胆気粗なり。
三たび岳陽に入れども、人識らず。
朗吟して、飛過す洞庭湖。
四
二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下がりました。
そこは深い谷にのぞんだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だとみえて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗ほどの大きさに光っていました。もとより人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、うしろの絶壁に生えている、曲がりくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下にすわらせて、 「おれはこれから天上へ行って、西王母にお眼にかかって来るから、お前はその間はここにすわって、おれの帰るのを待っているがいい。たぶんおれがいなくなると、いろいろな魔性が現われて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ころうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前はとうてい仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。いいか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなっても、黙って
います」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」 老人は杜子春に別れを告げると、またあの竹杖にまたがって、夜目にもけずったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
杜子春はたった一人、岩の上にすわったまま、静かに星を眺めていました。するとかれこれ半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透りだしたころ、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。
しかし杜子春は仙人の教えどおり、なんとも返事をしずにいました。 ところがまたしばらくすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないとたちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく嚇しつけるのです。
杜子春はもちろん黙っていました。
と、どこから登って来たか、らんらんと眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上がって、杜子春の姿をにらみながら、一声高くたけりました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思うと、うしろの絶壁の頂からは、四斗樽ほどの白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへおりて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずにすわっていました。
虎と蛇とは、一つ餌食を狙って、互いに隙でもうかがうのか、しばらくはにらみ合いの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命はまたたくうちに、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧のごとく、夜風とともに消え失せて、あとにはただ、絶壁の松が、さっきのとおりこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起こるかと、心待ちに待っていました。
すると一陣の風が吹き起こって、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすやいなや、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、すさまじく雷が鳴りだしました。いや、雷ばかりではありません。それといっしょに瀑のような雨も、いきなりどうどうと降りだしたのです。杜子春はこの天変の中に、恐れげもなくすわっていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――しばらくはさすがの峨眉山も、くつがえるかと思うくらいでしたが、そのうちに耳をもつんざくほど、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっかな一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思わず耳をおさえて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前のとおり晴れ渡って、向こうにそびえた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。してみれば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性のいたずらに違いありません。杜子春はようやく安心して、額の冷汗を拭いながら、また岩の上にすわり直しました。
が、そのため息がまだ消えないうちに、今度は彼のすわっている前へ、金の鎧を着下した、身の丈三丈もあろうという、厳かな神将が現われました。神将は手に三叉の戟を持っていましたが、いきなりその戟の切っ先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼をいからせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方はいったい何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住居をしている所だぞ。それをはばからずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもやただの人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。
しかし杜子春は老人のことばどおり、黙然と口をつぐんでいました。
「返事をしないか。――しないな。よし。しなければ、しないで勝手にしろ、その代わりおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬ってしまうぞ」
神将は戟を高くあげて、向こうの山の空を招きました。そのとたんに闇がさっと裂けると、驚いたことには、無数の神兵が、雲のごとく空に充ち満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐにまた鉄冠子のことばを思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束どおり命はとってやるぞ」
神将はこうわめくが早いか、三叉の戟をひらめかせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむほど、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。もちろんこの時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音といっしょに、夢のように消え失せたあとだったのです。
北斗の星はまた寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変わらず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。
五
杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静かに体から抜け出して、地獄の底へおりて行きました。
この世と地獄との間には、闇穴道という道があって、そこは年じゅう暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、しばらくはただ木の葉のように、空をただよって行きましたが、やがて森羅殿という額のかかったりっぱな御殿の前へ出ました。
御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るやいなや、すぐにそのまわりを取り捲いて、階の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍に金の冠をかぶって、いかめしくあたりをにらんでいます。これはかねてうわさに聞いた、閻魔大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへひざまずいていました。
「こら、その方はなんのために、峨眉山の上へすわっていた?」
閻魔大王の声は雷のように、階の上から響きました。杜子春はさっそくその問いに答えようとしましたが、ふとまた思い出したのは、「決して口を利くな」という鉄冠子の戒めのことばです。そこでただ頭を垂れたまま、唖のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏をあげて、顔じゅうのひげを逆立てながら、
「その方はここをどこだと思う? すみやかに返答をすればよし、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ」と、威丈高にののしりました。
が、杜子春は相変わらず脣一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度にかしこまって、たちまち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上がりました。 地獄には誰でも知っているとおり、剣の山や血の池のほかにも、焦熱地獄という焔の谷や極寒地獄という氷の海が、まっくらな空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、かわるがわる杜子春をほうりこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵に撞かれるやら、油の鍋に煮られるやら、每蛇に脳味噌を吸われるやら、熊鷹に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、とうてい際限がないくらい、あらゆる責め苦に遇わされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利きませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、あきれ返ってしまったのでしょう。もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきのとおり杜子春を階の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気色がございません」と、口をそろえて言上しました。
閻魔大王は眉をひそめて、しばらく思案にくれていましたが、やがて何か思いついたとみえて、
「この男の父母は、畜生道に落ちているはずだから、さっそくここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。
鬼はたちまち風に乗って、地獄の空へ舞いあがりました。と思うと、また星が流れるように、二匹の獣を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へおりて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母のとおりでしたから。
「こら、その方はなんのために、峨眉山の上にすわっていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
杜子春はこう嚇されても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合がよければ、いいと思っているのだな」
閻魔大王は森羅殿もくずれるほど、すさまじい声でわめきました。 「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
鬼どもはいっせいに「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上がると、四方八万から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所きらわず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身をもだえて、眼には血の涙を浮かべたまま、見てもいられないほどいななき立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか」
閻魔大王は鬼どもに、しばらく鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答えをうながしました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子のことばを思い出しながら、緊く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえないくらい、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのな
ら、それより結構なことはないのだからね。大王がなんとおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」
それは確かになつかしい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、うらむ気色さえも見せないのです。大金持ちになればお世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、なんというありがたい志でしょう。なんというけなげな決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにそのそばへ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落としながら、「お母さん」と一声叫びました。……
六
その声に気がついてみると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやりたたずんでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」 片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえってうれしい気がするのです」
杜子春はまだ眼に涙を浮かべたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っているわけには行きません」
「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳かな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持ちになることは、もとより愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったらいいと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
「そのことばを忘れるなよ。ではおれは今日かぎり、二度とお前には遇わないから」
鉄冠子はこう言ううちに、もう歩きだしていましたが、急にまた足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、さっそく行って住まうがいい。今ごろはちょうど家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。
(大正九年六月)
杜子春
芥川龍之介
平成12年9月15日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
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